津波の日、石巻でどう過ごしたか その2

2011.11.08 10:08|2011年の震災
門脇小学校内
火災のあった門脇小学校 まるで戦争の跡のよう

避難するボートから落ちてしまったSさん、

びしょ濡れの服で知り合いの家に行くのは迷惑だろう
と、考えたSさんは、緊急時の避難所に指定されている
近くの学校に歩いて行くことにしたそうです。
歩くというか泳ぐというか・・・

学校に着いてから、服を一枚ずつ脱いで乾かしました。
なんとか一日で乾いたそうですが、とにかく寒かった!と。
冬の東北でびしょ濡れですものね。

「避難所の何が嫌だった?」と聞くと。
「なにもかも!」と即答。
暖房はない、TVもラジオも新聞もない、
寝れるスペースもない、食べ物も水も不十分。
子供や知的障害者は泣き叫ぶ・・・

酒もタバコもない!のも、Sさんにはツライところでした。
支給された食べ物は次の朝のおにぎり半分だけ。

「情報がまったく無い3日間が不安だった。」

学校から脱出しようにも付近は水没していて、
また一度水に入らない限りは抜け出せませんでした。


瓦礫の山
海岸付近に出来た巨大な瓦礫の山

地震から4日目、避難所に来て3日目の朝、
近くの道路まで仮の橋が作られて、脱出可能になり、
すぐに「実家に行ってみよう」と決意しました。

実家はそこから25km近くあり、海岸から離れているので、
水は来ていないはずだと思ったそうです。

あと1kmというところまで来て、
通りかかった消防署の車に助けられたそうです。

自覚は無かったのですが、日差しが強い日で、
ひどくフラフラしながら歩いていたと言われたそうです。

そこで初めて新聞を見せてもらい、
津波の被害状況を知ったのでした。

最後の1kmは車で送ってもらい、実家に着きました。

日和山から
海岸近くの高台、日和山からの風景

実家にいたお兄さんは、
Sさんは死んだだろうとあきらめていたので、
とてもビックリして、涙を流したとのことです。

数日後、水が引いてから、
住んでいた海岸から1kmのアパートに行ってみると、
かなりひどい被害で、2階まで水が来た跡がありました。

「ここにいたら本当に死んでいたかもしれない。」
と、思ったそうです。

全てのモノが水没していたのですが、
部屋に置いてあった古い方の携帯はなぜか生きていて、
友人等の連絡先を失わずにすんだそうです。

携帯が生きていてくれなければ、
私もSさんは亡くなっただろうと、ずっと思っていたことでしょう。

個人の体験として、細部まで聞いてみたら、
その大変さが少し理解できた気がしました。

刺身盛り合わせ
このお店のご主人宅も1階部分は冠水して、現在は2階で生活

それから、ヘドロとの戦いを乗り越え、
今は魚卸店を再開しています。
お店は臭いもなく奇麗で、痕跡を感じないくらいです。

「まだやる気を出せずに、じっとしてる人もいる。
俺にはその気持ちは分からないけど。」と、Sさん。

「放射能のことはどう思ってる?」と聞くと、

「魚は全部検査をしてから市場に出ているけど
それ以上のことはまだ考えられない。
やっとなんとか建て直してるとこだから。」

そんな状態なのに、訪れた私達に「夕飯をご馳走する!」
と、言ってくれるSさん。

ご馳走されるのはなんだか不思議な気持ちでしたが、
Sさんの取引先のお店で豪華お魚料理をいただきました。

テーマ:サバイバル
ジャンル:ライフ

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 yoyo

Author: yoyo
元オーガニック系シェフ・現ヒプノセラピスト。食べ歩き、レシピ、山菜キノコ採取、お散歩、セラピー関連など、私の日々を綴ります。私がどんな人間か知っていただければ嬉しいです。

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